帰国した翌日、ノビは道場に向かった。
羽田に着いたのは深夜だった。荷物をほどいて、シャワーを浴びて、眠って、目が覚めたら道場のことを考えていた。
行かなければならない理由はなかった。でも、行かない理由もなかった。
靴を履いて、外に出た。
道場の扉を開けると、タタミの匂いがした。汗と革の、あの匂い。ロングビーチでも同じ匂いがしたが、ここのものとは微妙に違った。
タカが準備運動をしていた。顔を上げて、一瞬止まった。
ただいま戻りました。
(タカの声)おかえり。世界チャンピオン。
少し笑いながら言った。ノビも笑った。
変わったのは何か
練習が始まった。ウォームアップ、打ち込み、そしてスパーリング。
最初の一本は、タカとだった。
組んだ瞬間、何かが違うとわかった。タカが変わったわけではなかった。タタミが変わったわけでもなかった。
視野が広かった。
どこから崩せるか、どこに空間があるか。見える範囲が、出発前と違った。
(心の中で)……あ。
気がついたら試合が終わっていた。タカが言った。
(タカの声)なんか、全然つかまえられなかった。別人みたいだった。
ガリョウが待っていた
ガリョウが道場の隅に座っていた。帰国していたとは聞いていなかった。
遅かった。
……昨日、深夜に着いたので。
それで正しい。帰ったらすぐ道場に来る。それがわかっているなら、お前は続けられる。
ガリョウは立ち上がって、タタミに上がった。
もう一本やれ。今度は俺と。
……チャンピオンになっても、ガリョウさんには敵わない気がします。
当たり前だ。だから面白い。
クロワのデータ
練習後、クロワがデータを出した。
世界選手権での君の動きを分析した。大会前と比べて、判断速度が約17%向上している。ポジション変換の精度も上がっている。具体的には――
……クロワさん、今日の帰国初日に分析ですか。
問題あるか。データは感情に左右されない。今が分析の最適タイミングだ。大会直後のパフォーマンスを基準点にしておかないと、退化した時に気づけない。
聞いておけ。退化は静かに来る。
ノビはノートを取り出した。
チャンピオンの最初の一本
帰りの道、空が広かった。
ロングビーチで見た夜の海を思い出した。太平洋の向こう側にここがあって、ここから出発してあそこへ行って、また戻ってきた。
タタミは変わっていなかった。でも自分は変わっていた。それがわかったのは、最初のスパーリングだった。
(独り言)続きがある、か。
ガリョウが帰り際に言っていた言葉を思い出した。
「次の山を探せ。頂上にいると思ったら、もう下り始めている。」
道場には、まだ上がいる。 タタミに立ち続ける限り、まだ続きがある。
それがよかった。
その夜、ノビはノートにこう書いた──
道場に帰った。タタミの匂い、変わっていなかった。 でもタカが言った「別人みたいだった」という言葉が残っている。 世界一になったことよりも、最初の一本で何かが変わっていたことの方が、うれしかった。