3冊目のノートの残りは、あと数行分だった。
明日の朝、この町を発つ。その前に、やり残していたことが一つある。
最後の夜の仕事
宿の一階で、ガリョウとクロワが明日のルートについて話していた。僕はノートを持って、二匹の前に座った。
あの、二人にお願いがあるんです。記録のつけ方を教えたくて。
二匹が同時にこちらを見た。ガリョウは怪訝な顔、クロワは片眉を上げた。
俺に書き物をしろと?
書き物じゃなくて、観察の残し方です。いつか僕がいない場面で、必要になるかもしれないから。
口にしてから、自分の言葉に驚いた。いつからこんなことを考えていたのだろう。たぶん、3冊目の終わりが近づいてから。この群れの記憶が僕のノートの中だけにあるのは、危ういと思ったのだ。
二匹の生徒
ガリョウには「体の変化を言葉にすること」を伝えた。
ガリョウさん、あの最強の敵と戦ったとき、左腕の感覚が鈍くなってたの、覚えてますか。僕のノートに書いてあります。二日前から左で岩を叩くときの音が変わってたんです。本人が気づく前に、僕のメモが気づいてた。
……それは知らなかった。
鍛錬の後に、一言だけ書くんです。「今日の拳は昨日より軽い」とか「右膝に違和感」とか。それだけで、自分の体の変化が見えるようになります。
ガリョウは黙っていた。でも拒否の沈黙ではなかった。
クロワには「数字にならない情報の拾い方」を伝えた。
クロワさんは数値データの記録は完璧です。でも、村人の表情とか、空気の匂いの変化とか、数字にならないものも記録に残す価値があると思うんです。壊れた設計図の村で、村長の「それでも」が設計を変えたみたいに。
……定性データの重要性は、お前に教えられた。否定しない。
クロワがそう言って、自分の地図帳の余白にペンを走らせた。何かをメモしている。クロワが僕の言葉をメモしている。その光景が、信じられなかった。
最後のページ
二匹が寝静まった後、ノートを開いた。最後のページだった。
このノートに書ききれなかったことが、まだたくさんあります。ガリョウさんの不器用な優しさとか、クロワさんがたまに見せる笑顔とか。
ゆっくりと、書いた。
「今日、初めて二匹に記録の話をした。ガリョウさんは黙って聞いてくれた。クロワさんはメモを取っていた。僕が教えたことなんて、たぶんほんの少しだ。二匹がくれたものに比べたら。」
ペンを置いた。ノートを閉じた。3冊を重ねると、片手で持てる厚さだった。
……笑顔のくだりは消せ。
起きていたらしい。
記録すべきデータがまだあるなら、次のノートが必要だ。論理的帰結として。
クロワも起きていた。二匹とも、寝たふりをしていたのだ。
窓の外が白んできた。角が擦り切れた1冊目。砂が挟まった2冊目。クロワが選んでくれた3冊目。3冊を鞄にしまった。
その夜、ノビはノートにこう書いた──
クロワさんがメモを取っていた。あれだけで、僕がこの群れにいた意味はあったと思う。